停滞
浪人生としてやってきておよそ4か月が経って、かつてないほどの停滞を感じている。
そもそも、これまでロクに努力というものをしたことのないダメ人間なんだから、停滞うんぬん以前にそもそもどこにも向かってないじゃないかとツッコまれると、それはまあその通りなんだけど、それでもこれまでは漠然とどこかへ向かってるような感覚はあった。けれど、高校を出て中高の同級生の大半が大学や専門学校に進み、自分だけが出遅れてしまって、かつてない虚無感、焦燥感に駆られている。
先日、ツイッターで中学の同級生のアカウントを見つけた。bioに有名な都内の大学の名前があった。特別仲がよかったわけでもないけど、立派になったもんだと思った。彼は中学時代、お世辞にも勉強が得意と言える生徒ではなかった。テスト前に彼に勉強を教えてやったことがあるが、ひどく苦労したのを覚えてる。それでも今は大学でそこそこ上手くやってるらしい。
それに比べて、俺はどうだ?中学でも高校でも、大して勉強しなくても、授業さえ聞いていればテストで困ることはなかった。自分はどちらかと言えば勉強ができる方だという自負(或いは勘違い)はあったし、そこに自尊心さえ芽生えていた。ところが、どうだ。今や、俺は惨めな根無し草。内心見下していた彼の方が、ずっと立派な人間じゃないか。(この考えはいささか学歴至上主義がすぎるかもしれないが)
そういうことを考えていると、色々と滞る。最近は何もかもが上手くいかない。机に向かっても、そういった逡巡にのまれてぼーっとしているうちに時計の長針は一周する。
浅慮であることを肯定する風潮には疑念があるけど、ウダウダ言ってないで、やるべきことをやらないといけないときもある。
酸いも甘いも経験してきた人間にはその分「何もしない」経験が足りない。そう考えると、一つの場所にとどまって何処にもいけないこの経験も、案外そこまで悪くないように思える。
映画『海獣の子供』が楽しみすぎるって話
こんにちは、伊倉またはryeです(正直どっちでもいい)
今回は6/7(火)公開の映画、『海獣の子供』が楽しみすぎるという話です(ホントにそれだけ)
僕は元より五十嵐大介作品がめちゃくちゃ好きで、その中でも海獣の子供はトップクラスに好きな作品なんですよ 初めて読んだのは高二の頃で読んだ日は圧倒されて夜も眠れなかったのをよく覚えています
まあなんでそんなに好きかというのを説明していきたいと思います
極力ネタバレを避けつつあらすじから
ハンドボール部に所属する中学生琉花は、トラブルで夏休み早々部活禁止になってしまう。やさぐれた彼女は、シューズを買うためのお金で東京へ行き、そこで海の生物と交感する力をもつ不思議な少年、海と出会う。翌日、琉花は父親の勤務する水族館で、海と再び会い、父親に海の面倒を見ることを命じられた。いなくなった海を探しに浜辺に出た琉花は、海の双子の兄、空とも出会う。海と比べ軽い性格の空に、琉花は反発しながらも交流を深めていく。同時期、海には隕石が落ち、世界では「白斑」を持つ魚が光となって消える現象が多発していた。(wikiから引用)
まず、五感に訴えかけてくる力がものすごく強い作品なんですよ。潮の匂い、コンクリートの匂いを感じるような繊細なタッチ、読者を海の中に引き込んでしまうような圧倒的な画力。もうね、最高なんですよ(語彙力は消える)
そしてストーリーも最高なんです。ええ。
民族伝承テイストでありながらSFチックでもある。謎が謎を呼び、ストーリーはどんどん深部へ進んでいく。
消えた魚の行方は?
隕石とは何なのか?
海と空は何者なのか?
琉花は何故巻き込まれたのか?
ストーリーは世界を大きく巻き込み、収束していく
とりあえず現状僕がネタバレを避けて言えるのはこのくらいです
まあ正直僕はこの作品の魅力を言葉で伝えきるのは不可能だと思ってます(本末転倒)
作中でも何度も言われるんですよ。「言語に依るというのははみ出した部分を切り捨てるということだ」と。
なんだかウィトゲンシュタインを思い出しますね。論理哲学論考の中で述べられる「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」を
そしてですね、僕が映画海獣の子供が楽しみな理由はただ原作が好きってだけじゃないんですよ
なんと今回映画の主題歌を務めるのが
僕の最も好きなアーティストの米津玄師さんなんですよ
以前、米津さんは「五十嵐大介は最も尊敬する漫画家のひとりだ」と述べており、ルーヴルNo.9の際には交流もあったそうです
これを知った時はもう鳥肌が立ちましたね。
友人や尊敬する人や好きな人と好きなものが一緒だったという瞬間はなんとも心地良いですね。
YouTubeで公開されている予告映像で一部だけ曲が聴けます。一部ではありますが、壮大で美しい曲だなあと思いました。
そして作画の綺麗なこと。今回制作が『鉄コン筋クリート』で有名なstudio4℃さんとなっております。(6/2(日)にtokyo mxで放映するらしいです みようね!)
原作の感覚的で壮大な世界観を美しく表現してくれるんじゃないでしょうか。
そんなこんなで映画『海獣の子供』が楽しみすぎるという話でした。公開日、僕は午前中予備校の授業があるのですが、午後から自転車で爆走して見に行きたいという所存です。
僕の全フォロワーに見てほしいですね。本当に勧められます。是非今夏は『海獣の子供』を見ましょう。以上、ご精読ありがとうございました。
Flamingoについて
初めまして ryeと言うものです。恐らく、読むのはツイッターの一部のフォロワーさんだけなんじゃないかな〜と踏んでおりますが念のため。
前々からブログには興味があって、今回契機があって踏ん切りがついたので始めた次第です。
前置きはこの辺にしておいて本題に入ります。タイトルにもある通り、今や知らない人もいないであろう今をときめく音楽界のスーパースター米津玄師さんの新曲、Flamingoについてです。
つい昨日YouTubeにて公開され、公開から約一日で急上昇ランキング1位、そして再生回数はなんと261万回!しかしツイッターでサーチをしてみると意外と「微妙」という声が多いようです。
これを見て、ハチ時代からのファンである私は憤慨を覚えると同時に、また嬉しくも思ったのです。
米津さんのここ最近の人気は目覚ましく、ドラマの主題歌を務め、CMでも起用されたLemonは、どこのショッピングモールに行っても必ずと言っていいほど流れています。その他LOSER、orion、ピースサイン等、近頃の米津さんの楽曲は総じて万人受けしており、汎用性が高いものになっています。このLOSERからLemonにかけて人気が高まった2017年から2018年前半のことをBOOTLEG時代と呼びましょう。
このBOOTLEG時代に米津さんは一躍人気となり、私の周りでも恐らく名前も知らない人はいないんじゃないだろうか、と思えるほどの知名度を得ました。
私はこのBOOTLEG時代のことを面白くないなあと思っていました。
好きだったアーティストが人気になってしまい、嬉しいはずなのにどこか寂しく感じるという経験をしたことがある人は、決して少なくないのではないでしょうか。それと同様の感情を、私も持っていたのです。
しかし、BOOTLEG時代を快く思っていなかった理由はもう一つあります。それは米津玄師らしさの喪失です。私の思う米津玄師らしさというものの一つには、不思議で聞き慣れない小難しい言葉を使っているに、それでいてどこかパッパラパとしている阿呆らしさにあったのです。しかし、BOOTLEG時代にはそのどこか格好良い阿呆らしさが失われていたのです。
BOOTLEGのアルバムを聴いた時、音楽自体は格好良く、美しいものだと素直にそう感じました。しかし私の好きだった不器用な昼行灯をそのアルバムの中に見出すことはできませんでした。
私は悲しく思いました。ああ、あの好き勝手に音楽作ってた頃の米津さんはもう死んでしまったのかと。Lemonが発表され、私のその思いには拍車がかかりました。LemonのB面の楽曲であるクランベリーとパンケーキ、Paper Flowerに救いがあったかのように思えましたが、それらはあくまでもB面の楽曲で、Lemonのおまけでしかなかったのです。そのため私の蟠りが消えることはなかったのです。
しかし、今回発表されたFlamingoは、そのような寂しさに苛まれていた私を見事に救ってくれたのです。
阿呆らしくありながら、切なさを含んだ格好良さがあり、それどころか以前にはなかった妖艶な雰囲気を醸成し、米津玄師らしさというものを進化させてみせたのです。
BOOTLEG時代以前の阿呆らしさ、ハチ時代から失われることのないどこか寂しさを孕んでいる格好良さ、そして新たに生まれた危険な色香が絶妙に混じり合い、Flamingoは多くのファンの心を動かしました。
Flamingoを微妙と評した多くの輩は、恐らくBOOTLEG時代の米津玄師しか知らないミーハーな連中なのでしょう。だからこそ、私はそんな意見を見てほくそ笑むことができるのです。そして、嬉しく思うのです。